
文化財解説文 | 心光寺(しんこうじ)は、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘で京極忠高(きょうごくただたか)夫人となった孝安院(こうあんいん)の牌所(はいしょ)として寛永7年(1630)に建立された孝安寺(こうあんじ)を前身とし、同18年(1641)に酒井忠勝(さかいただかつ)側室竹子(心光院(しんこういん))が没し、菩提を弔うための寺として心光寺と改名された。
本品は、寺伝で心光院所用とされる蒔絵の膳椀で、木造、漆塗で総体に金蒔絵(きんまきえ)を施した3基の懸盤(天板(てんばん)に朝顔と薄(すすき)を熨斗(のし)で束ねた意匠)を中心とする膳椀一具である。 本膳椀一具の収納箱蓋裏には墨書銘(ぼくしょめい)があり、元文5年(1740)に心光院の百回忌に当たって箱が新調され、本品が彼女の菩提を弔うため当寺に施入(せにゅう)された重宝(じゅうほう)と認められていたことをうかがわせる。また、蒔絵の豪華で精緻(せいち)な作行きは、寛永14年(1637)に3代将軍家光(いえみつ)の第一子として誕生し、3歳で尾張徳川家に入嫁(にゅうか)した千代姫(ちよひめ)の婚礼道具として調進された「初音(はつね)の調度(ちょうど)」(国宝、徳川美術館蔵)と同時代の製作になることを示し、心光院生前の所用品とみてよい。ただ、婚礼調度が実家または入嫁先の家紋を散らすのに対し本品がそれを表さないのは、竹子が側室であったことによると思われる。いずれにせよ本膳椀は、蒔絵技法が高みに達した江戸初期の一具として、県内伝来の漆工品でも特筆されるべきものである。 |
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