
文化財解説文 | 惣網代(そうあじろ)、溜塗(ためぬり)、打揚(うちあげ)(両側の天井が開く)、黒担(にな)い棒の乗物(駕籠、以下「本資料」とする)で、担い棒の棒先金物には徳川将軍家の家紋(三葉葵(みつばあおい))が陰刻(いんこく)される。小浜藩廃止とともに売却された物品の一つで、小浜の商人が買い取り、明治3年(1870)に小浜市伏原(ふしわら)の曹洞宗発心寺(ほっしんじ)に奉納されたと伝えられる。
寛永11年(1634)に将軍徳川家光の上洛に随行した酒井忠勝(さかいただかつ)は、京で若狭転封(てんぷう)(もと武蔵川越(かわごえ))を命じられ、遠江(とおとうみ)浜松で若狭入国の暇(いとま)を許され、家光が乗用した乗物と馬(御紋蒔絵鞍置(ごもんまきえくらおき))などを拝領したとの記録が残る。 その後、歴代藩主の乗用はなく、小浜城内に留め置かれたと考えられるが、江戸時代末期の万延元年(1860)、和宮(かずのみや)降嫁(こうか)にかかり酒井忠義(さかいただあき)(京都所司代(きょうとしょしだい)、小浜藩主)が宮中に参内(さんだい)するにあたり、藩祖忠勝が拝領した乗物ほかの品々を使用することを幕府が許可したことが確認されている(『酒井家代々記』など)。 本資料は仕様、史料から考えて酒井忠勝が徳川家光から拝領した乗物であることは疑いない。徳川将軍が使用した乗物は伝存例が少なく、極めて貴重である。 なお、徳川将軍家の家紋を刻した棒先金物(家紋の様式は江戸時代後期の様式である)を含め、幕末に宮中参内に使用されるにあたって施されたと推定される修補箇所がいくつかみられる。 |
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